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| 酒好きがよく、「このツマミさえあれば、軽く一升はイケル・・・」なんて申しますが、私の場合は下戸でもあり、「この本さえあれば軽く一晩の幻想はイケル・・・」である。 |
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たかが小さな浮子である。うまく眠れぬ夜は、私の故郷、新潟のあの沼、あの川に、この浮子を浮かべ、夢想の世界で釣り遊ぶ。
……二代目馬井助は、初代馬井助の次男として、京都に生まれた。
初代馬井助は、京都市中で床屋を営むかたわら、新内を語り、新内師匠の看板を掲げる典型的な粋人だった。明治の末から大正初期にかけての頃であったという。
初代は、どんなに他人からすすめられても、終世、職業としての浮子師にはならなかった。初代が寡作に終わったにもかかわらず、馬井助浮子の名を関東にまで広めたのは、二代目馬井助に負うところが大きい。
二代目馬井助は高等小学校を出ると、古着屋にデッチ奉公に出たが、折り合いがうまくいかず、十六の歳に神具店に奉公をを変えた。
父ゆずりで手先の器用な二代目は、ここで小さな神棚作りに才を発揮したが、典型的な職人気質からその後転職を重ねた。
だが、初代が没した直後から、二代目は憑かれたように浮子を削り始める、二代目二十六歳であったと言う。
完成した馬井助浮子は初代の作に勝るとも劣らぬ出来であった。こうしてでき上がった浮子を箱につめ、京都市内の釣具店に妻を伴って売り歩いた。妻を同伴したのは、二代目馬井助は交渉事がまるで苦手だったからである……。
こうした職人が、小さな浮子を削り極める、その価値を見いだすだけのインテリジェンスが、当時の日本社会にはあった。 |
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二台目馬井助
故 菅原与市 |
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| 「釣り曼荼羅」より、二台目・馬井助浮子 |
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| 「釣り曼荼羅」より、二台目・馬井助浮子 |
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